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【提出論文】 親鸞における「海」のメタファー

龍谷大学 人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センター
国際会議「ディープリスニング:仏教と心理療法の東と西」
(Deep Listening, Deep Hearing: Buddhism and Psychotherapy East & West)

2006年7月29日(土)~2006年8月2日(水)
Oregon Humanities Center (オレゴン・ヒューマニティーズ・センター / オレゴン大学)

【提出論文】
「親鸞における「海」のメタファー」

杉岡孝紀
(龍谷大学文学部真宗学科助教授)



はじめに

本論文は、親鸞が自身の著述の中で多用している「海」のメタファーの意義を明らかにするとともに、彼が語る「海」のメタファーがどのような形で成立したのか、その思想的な背景の一端を探ることを課題とするものである。



1.海への関心とメタファー

はじめに、論文の題目にあるメタファーという語について考えることから始めよう。
メタファー(metaphor)という語は、meta(越えて)+pherein(運ぶ)というギリシア語を語源とする。文字通りには「別の場所への移動」を意味する。普通は「隠喩」と訳され、「のようだ」「の如し」という表現をもつ「直喩(simile)」と区別されて、比喩指標を用いないで対象を類似性により喩える手法を意味する。メタファーは長く修辞学の領域を中心にして研究がなされてきたが、その古典的な定義は、アリストテレス(Aristoteles)が『詩学』(Poetics)第21章において、「語の転用(比喩)というのは、あるものごとに対して、本来は別のものごとを指す語を適用すること」*1  であると提示したものであると考えられる。そして、メタファーが語の置換であるというこの伝統的な見方は、今日私たちがメタファーに対して持っている一般的な理解でもあると言えるであろう。またそのために、メタファーは単に言葉の飾り、或いは詩的空想力が生み出す言葉の綾に過ぎないと考える人々も少なくないのである。
しかしながら、1980年にG.レイコフ(Lakoff)・M.ジョンソン(Johnson)が『レトリックと人生』(Metaphors we live by)を出版したことが一つの契機となって、メタファー研究はニューレトリック運動とも称すべき大きな転換を経験することとなった。そこでは、メタファーは言語にとって決して二次的なものではなく、むしろ言語の本質的可能性として理解すべきものであることが強く主張されようになった。例えば、G.レイコフ・M.ジョンソンは「言語活動のみならず思考や行動にいたるまで、日常の営みのあらゆるところにメタファーは浸透している」*2  と述べている。かかる見方を受けて、瀬戸賢一氏は「メタファーは単に言語の問題である以前に、認識論の問題として理解されなければならない」*3  とその意義の重要性を語っている。メタファーが人間の存在の根幹に係わるものであるならば、様々な局面でそれは大切な役割を果たしていることになる。
今、宗教との関連で見ると、聖典はもちろんのこと、儀式・儀礼などにおいてメタファーは確かに重要な役目を担っている。例えば、キリスト教はメタファーに依存した宗教であると言われるが*4  、仏教においてもメタファーは極めて重要な意味を持っている。仏陀の説法は人に応じた比喩(譬喩)を以て説かれることが多く、十二部経には「譬喩経」(avadana)と呼ばれる一類がある。また大乗経典では、色形もなく、言葉を超えた真理を表す際に、或いは理解の困難な教説に対して比喩は用いられている。経典それ自体がメタファーであると言ってもよい程に多彩な比喩表現を見ることができるのである*5  
そして、親鸞の著述を窺うならば、そこにも種々のメタファーを見つけることができる。それらは相互に関連し機能していると考えられるが、その中で特に注目すべきものは光明である*6  。光は何時の時代にも通じるルート・メタファーであると言われる*7  。そしてまた、親鸞の仏教思想において「海」の語は「光」と同様に重要な意味をもっていると考えることができる。例えば、彼の主著『教行信証』総序の冒頭には、「難思の弘誓は難度海を度する大船、無礙の光明は無明の闇を破する惠日なり」(真聖全2 、p2)と、阿弥陀仏の本願が度し難き衆生を救済する事態を、海と光の対句によって端的に述べられることからも明らかである。この一節は、読む者をして無限に広がる鉛色の冷たく暗い海に光が射し込み、その海が一瞬にして光輝いている、そんな風景の前へと立たしめることとなる。さらに求道的読者は、ここに見る群生の海と光明の景色が遠景でなく、現在の自身の姿であることをついには知ることになるのである。ここでの「海」と「光」のメタファーは、そのような強烈な印象を与えるのである。
さて、親鸞は総序の文だけでなく多くの著作の中で、群生海、一乗海、真如海、本願海、大宝海 HammerHead ハマーヘッド ブレーキペダル・シフトペダル シフトペダル ラバーティップ オフセット:-5mm カラー:シルバー R1200GS、信心海、

、無明海など「海」に関する言葉を数多く用いている。森竜吉氏によれば、その数は一〇四箇所で種類は三十二種に及ぶとされる*8  。もちろん、「海」の語を用いた表現は親鸞に限るものではない。けれども、親鸞には「山」の比喩は少ないこと、また師の法然が撰した『選択本願念仏集』の中には、「海」という表現が使用されていない点に着目するならば、親鸞の「海」への関心は特別なものであると考えることができる。
親鸞の時代にどれほどの人が実際に海を見ることができたのか分からない。現在に比べ少なかったことは間違いないであろう。そうすると、親鸞が海の語を多用することの意義は、理解を容易にするための語の置換ではなく、まさにメタファーとして、衆生の存在と如来の在り方に係わる根本的な問題を明らかにするものであると考えることができる。



2.海のイメージ

海は私たちと深い関係をもっている。人類をはじめ地球上に生存する三千万種以上の多様な生命の原始は、三十八億年前に海から誕生したのだと言われる。海は全ての生命の故郷であり、母胎であるとも称される。だからであろうか、地球上の生物の血液の組成は海水とよく似ているとされるなど、人と海との関係は実に興味深い*9  。特に、海に囲まれた日本に住む私たちは、古くから食生活をはじめ、経済面でも文化的にも海から様々な恩恵を受けてきた。他国との交流は海を介して発展し、海に生きる人々や海産物が日本固有の文化を作り上げてきたことも事実である。仏教も海を渡って大陸から伝わってきた。この私たちと密接な関係にある海のメタファーがもつ意義とはどのようなものであろうか。メタファーの意義は文脈の中でこそ理解されなければならないが、まずは私たちが普通、海に対してどのようなイメージを持っているのかを考えてみたい。『広辞苑』の「海」の項には、

(1)うみ。普通、「洋」より狭い水域を指す。「海岸・航海・日本海」←→陸。(2)広く大きいさま。「海容」。(3)一面に広く集まったところ。「苦海・樹海・雲海」*10  

と記されている。この記述は他の辞書でも大差ない。ここから海の特性として大きく二つの意味を見出すことができる。一つには広く大きいという意であり、二つには「苦海」の語例の如く、一面に広く無数に集まってうごめいている様の意である。この二つの意味は対照的なイメージに基づくものであると考えることができる。前者がプラス・イメージであるのに対して、後者はマイナス・イメージである。或いは、明と暗のイメージと言った方が適切かも知れない。もちろん、辞書に見る海の語は文脈上の海のメタファーに対し、未だ潜勢的な意味をもつに過ぎない。そこで、次にアド・ド・フリース(Ad de Vrise)著『イメージ・シンボル事典』(Dictionary of symbols and imagery)を参照し考えてみたい。この事典の「Sea(海)」の項には多くの意味が挙げられる。主たるものを列挙すると、

(1)ヤハウェの(混沌の)敵が生まれる場所。 (2)3つの姿をとる太陽神の一つ。 (3)混沌の水の残りとされ、原初の創造を表す。したがって、すべてのものが生まれ、そして帰っていく神秘的で無辺なものを表す。 (4)測り知れない真実と英知。 (5)性欲、または集合的無意識。 (6)良心。 (7)海は沈んだ莫大な財産と人命をためこむ。 (8)流動、死、時。 (9)永遠。 (10)肥沃と不毛。 (11)活動の場であり、肉欲と直裁な行為を表す。 (12)人をうけつけぬ涼々とした場所。 (13)孤独。 (14)浄化…*11  

と記されている。これによると、海には、真実・英知・良心・永遠・肥沃・浄化といったプラス(明)・イメージと性欲・死・不毛・孤独などのマイナス(暗)・イメージとのダブル・イメージとがある。ここには直接、東洋的な海のイメージは収められていない。一切の対立項を生み出しながら分化し、また分化したものから自らに帰するという意味構造の運動は、聖書を起源としている。仏教では一切の現象を生み出す絶対的な一なる存在はむしろ否定されている。けれども、一般に人々が海に対して一切を生み出す「母」のイメージを持っていることも事実である*12  。また、(5)に挙げられるような欲望との関連、さらに(14)の浄化するはたらきといったイメージは私たちも持っているものであるし、上記の対照的な二種の海のイメージは東西共通するものであると考えることができる。
以上より、海の特性を考えてみると、海は広大で一切を包み込むという包摂性、そして平等性をもっている。或いは人間の歴史的・時間的影響を超えた永遠性をもつ。そして海は超越的であり、また沈黙する存在である。さらに、海は一切の汚れを浄化する働きをもつという清浄性、ひいては真実性を本性としている。一方で、その無限にも思われる深さが欲望をイメージさせ、罪悪性や暗黒性のイメージを有することとなる。また海には干潮満潮のリズムがあり、時間の変化を刻む。海は時々刻々 デイトナ 68295 ソウルプレート(フレイム)MAJESTY マジェスティ250(5GM/5SJ) デイトナ 68295、変化流動しているのである。そのためにまた、絶えず変化する人間の心とも結びつけられることとなる。



3.親鸞の海釈

親鸞における「海」の語の使用例を整理すると、大きく二つの対照的な用法が見られる。一つは、総序の文に見る「難度海」の如く、衆生(人間)の相を海に喩えるものであり、二つには如来とそのはたらきを海に喩えるものである。親鸞は機も法も共に「海」の語を用いて表現しているのである。機に関する用語例としては、例えば、群生海・衆生海・生死海・無明海・煩悩海などがある。法に関するものとしては、一乗海・大智願海・功徳大宝海・慈悲海・信心海・誓願海・真如海などがある。親鸞はこの二つの海の関係をどのように理解しているのであろうか。
親鸞が「海」に関して直接的に言及しているのは、『教行信証』「行巻」一乗海釈の海の解釈部分である。親鸞は一乗海釈において、はじめに「一乗」の語を釈して、仏教は一乗の法であり、その法は誓願一仏乗、すなわち阿弥陀仏の教法であることを明かす。その上で、この唯一絶対の法を「海」に喩え、次の如く述べる。

海と言ふは、久遠より已来、凡聖所修の雑修雜善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水と成る。これを海の如きに喩ふるなり。良に知んぬ。経に説きて、「煩悩の氷とけて功徳の水と成る」と言へるが如し。願海は二乗雜善の中下の屍骸を宿さず。何に況んや人天の虚仮邪偽の善業、雜毒雜心の屍骸を宿さむや。

(真聖全2、p39)

海は無始以来、凡聖の行者が修めてきた雑修雜善の川水や逆謗闡提がもつ煩悩の海水を、本願の大智大悲の大宝海水に転成せしめる。そしてこの海のはたらきは、『経』に「煩悩の氷が溶けて功徳の水となる」と説かれるようなものであると述べる。さらに如来の本願の海は、頑固な心を持った二乗の雑善の死骸を宿すことがなく、ましてや人天の虚仮や邪偽の善業や雑毒・雑心の死骸を宿すことなどはあり得ないと述べるのである。
ここでは、海がもつ特質として大きく同一鹹味(海一味)と不宿死骸の二徳が述べられている。前者は海がもつ平等性という特性を表している。海には無数の川が流れ込む。清流もあれば濁流もある。けれども、いずれはどれもが一つ同じ海へと注ぎ込まれる。そして海に入ると同一の味となっていくことを明かす。不宿死骸の徳は従来、自力の不必要なることを表すものであると説明されるが、死骸を宿さないという性質は、海それ自体が根源的にもっている特性としての清浄性の意として解釈すべきであろう。すなわち、海はいかなる汚濁も清浄へと転ずるはたらをもっているのである。このように考えると、一乗海釈における「海」の解釈は、二つの徳を説きながらも、ただ一つ海がもつ「転成」というはたらきを、二種の徳をもって明らかにされているのだと考えることができるのである。
それでは、「転成」とはどのような構造なのであろうか。以下、この点を考えることにする。『高僧和讃』(曇鸞讃)には、次の如く述べられる。

無碍光の利益より威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけすなわち菩提のみづとなる

(真聖全2、p505)

他力の信心を獲得するとき、必ず煩悩の氷が溶け、菩提の水となることが述べられる。ここでは、衆生の煩悩と菩提とが水と氷に喩えられ、氷が水へと溶けて変化するように、煩悩も菩提へと転ずることが示されるのである。また同和讃には、

罪障功徳の体となるこほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほしさはりおほきに徳おほし

(真聖全2、p506)

と述べられる。罪障(=煩悩)は功徳(=菩提)の主質となり、氷が多ければ水が多いように、障りが多いとまた徳が多いと言われる。ここでは、罪障と功徳の関係は、一方が消滅することが同時に他方の生ずることであるという関係と共に、また相反する関係にある二つが自己同一的であるという関係が成立している。さらに、『唯信鈔文意』には、

自然といふはしからしむといふ、しからしむといふは プロジェクトμ ブレーキパッド NS-C NSC 1台分 アテンザ GGEP (20C/20F) 02/5~ プロジェクトミュー、行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生・未来の一切のつみを善に転じてかへなすといふなり。転ずといふは、つみをけしうしなはずして善になすなり、よろづのみづ大海にいればすなはちうしほとなるがごとし。

(真聖全2、p623)

と示される。親鸞において、「自然」とは、衆生の自力の一切のはからいを超えた阿弥陀仏の本願力回向のはたらきを示す概念である*13  。親鸞はこの自然のはたらきを「海」に喩えているのである。この時、注意したいのは、凡夫の罪が消し失われることのないまま、善心(利他大智大悲心)へとダイナミックに変えなされるという点である。そして、親鸞において転成は信心獲得の瞬間の出来事として説かれるために、この構造は信心の立場において理解する必要がある。すなわち、今ここに存在している私の全体がそのまま罪業の身として自覚される所、そこに同時に如来の智慧即慈悲がダイナミックに活動していることになる。罪業の自覚と大悲の自覚は矛盾しながら一つであるという二種深信の構造である。



4.海の比喩の思想的背景

(1)経・論・釈からの引用

親鸞における海のメタファーの思想的な背景はどこにあるのであろうか。それは従来指摘されているように、一乗海釈に引用される『無量寿経』の「如来の智慧海は深広にして涯底なし。二乗の惻る所には非ず」(真聖全1、p27)という文をはじめ、『浄土論註』の影響を受けるものであると考えられる。『浄土論註』観察門下の大衆功徳釈には、

「海」とは、仏の一切種智は深広にして崖りなく、二乗雑善の中・下の死尸を宿さざることをいふに、これを海の如しと喩ふ。この故に「天人不動衆清浄智海生」といへり。「不動」とは、かの天・人、大乗の根を成就して傾動すべからずと言ふなり。

(真聖全1、p302)

と述べられる。親鸞はこの文を一乗海釈にそのまま引用しているのである。また、先掲の曇鸞讃において海の喩えが説かれることからも、『浄土論註』の影響があることは言うまでもない。しかしまた。例えば『涅槃経』巻32には海に八不思議(大正蔵12・558・c)があると説かれ、『華厳経』巻39には海の十相(大正蔵39・209・a)が列挙されているなど、大乗経典には海の比喩が多く見られるのである。
そうした中で、注目すべきは『華厳経』における海の比喩であると思われる。例えば大田利生氏は親鸞が『華厳経』を引用する際に「入法界品」からの引用文が多いことを指摘し、その理由について次の如く述べている。
入法界品のなかで、とくに「海」ということばが頻出している点に注意させられる。また、善財童子が尋ねて教えを受けた人のうちには「船師」がいるし、船師が河で人をわたす譬喩にも言及している。さらに重要なことは、仏の世界も、衆生の世界も海によってあらわされているということである。例えば、「一切佛名号海」といい、「生死煩悩大海」といっているからである*14  
仏の世界も衆生の世界も共に「海」の語をもって表現されているという点は、親鸞の用法と同じであり、そこに『華厳経』の影響を見ることができると言えるであろう。一々の例を挙げることは紙数の都合により省略することとするが、『華厳経』では法とそのはたらきが、智慧や覚りの特性である清浄性をもって海に喩えられている。そして、衆生は無明・煩悩に縛られ汚されているために六道を輪廻し生死を繰り返す愚かな存在であり、このような者が数限りなく多く世界に充満しているという理由で、海に喩えられている。「煩悩海」「惑海」「愛欲海」という語も見られる。さらに『華厳経』の中には、親鸞と同様、衆生と関わる生死や苦も海に喩えられていることが知られる。
しかしながら、親鸞には『華厳経』には見られない「大信海」「信心海」「本願海」といった例も幾つかある。親鸞の海のメタファーが全て『華厳経』の影響下にあるものと見ることはできないものの、数多くの一致が認められることは注意されてよいであろう。このような見方に対し 【メーカー在庫あり】 アクティブ ACTIVE 車種専用スロットルキット TYPE-3 巻取径φ42 09年-12年 ニンジャ650、ニンジャ400 ステンレス/シルバー 1067594SU JP店、一方で、従来親鸞が海に特別の関心を寄せる理由を、越後への流罪事件に求める見方がある。以下、そうした見解を検討することとしたい。


(2)親鸞が体験した海

親鸞の越後における流罪生活を今日に伝える史料はない。『教行信証』後序に見る「経五年居諸」(真聖全2、p202)というわずか五文字が残るのみである。しかし、森竜吉氏は次の如く述べている。
仏の世界が「海」であると同じく、衆生の世界も「海」である。二つの海があるのではない。いわんや三十二種の海が別々にあろうはずはない。「海」はただ一つである。親鸞の眼には、上陸地点として今にいい伝えられる直江津海岸の「居多(こた)の浜」から、晴れた日にははるかに佐渡が見わたせる日本海のうなばらが一つあっただけである。…親鸞は海を見、海と対面し、海によって生きる漁師たちとも語り合う機会をえた。貴重な製塩の実景を目のあたりにもした。すべてが新しい経験であり、未知の世界の発見であった*15  
親鸞が五年間の流罪生活を送った越後の国府は、日本海の居多浜に面した漁村である。親鸞は都から遠く離れ、文化的にもまた経済的にも隔絶された辺境の寒国において、自然とともに逞しく生きる人々の現実を目の当たりにしたことであろう。親鸞にとって、田舎の人々は、『無量寿経』に示される「群萌」、すなわち名もなき雑草の如き衆生と映ったかも知れない。もしそうであるならば、「群生海」といった表現は、群萌の日暮しを通して内在化されたものであるといった推論も成立することになる。親鸞において群生海の自覚は、『唯信鈔文意』に、「かやうのあきびと、猟師、さまざまなものは、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。」(真聖全2、p627~628)と述べられることからも読み取ることができる。本願名号を信順する「煩悩具足のわれら」「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら」は、煩悩を具足したまま大涅槃を得るのである。伝統的な仏教の救済から除外されてきた「われら」が、摂取の光に包まれて願力自然のはたらきによって転成せしめられていくのである。それはまさに氷と水の関係の如くであり、さらに「変成金」とも称される在り方なのである。
また、安富信哉氏は先の森氏の見解を受けて次のように述べている。
冬の日本海は、時折手のつけられぬ高波を生じる。豪雪はすっぽりと白一色に大地を覆い尽し、自然の営みを押し潰す。このような毎日を、人々は家に籠もり、飢えや厳しい寒さと闘いながら、じっと堪え忍ぶのである。しかし春の訪れとともに、風は凪ぎ、海は平静を取り戻して、水はどこまでも蒼々と澄み渡る。海の民は、「海河に網をひき釣りをして世を渡る」(『歎異抄』)。このような大自然の猛威と優しさに折々身を接した親鸞が、海のイメージを意識の深層に胚胎していったことは、想像にかたくない*16  
大自然がもつ猛威と優しさという二面が親鸞に機法二種という海のイメージを造り出していったとする安富氏の見解は実に興味深い指摘である。
親鸞の思想は浄土仏教の伝統を踏まえ、自らの宗教体験を体系・論理化したものである。そしてその宗教体験は、伝統を踏まえながら、同時に日本という風土の中で深められて、独自の思想を展開したものであると見るべきであろう。親鸞は流罪を通して「転成」を本質とする自然のはたらきを、海のメタファーとして形成していったのではないであろうか。そしてもし想像の翼をもう少しだけ延ばすことが許されるならば、私は「転成」が氷と水の喩えでもって説明される点に注意を払いたいと思う。北越の配所は豪雪の地である。北陸地方に降る雪の量は世界的にも他に例を見ない。その原因は日本が海に囲まれているからであることが指摘されている*17  。冬に降った豪雪も春には溶けて河となり、そして海へと流れていく。積雪が多ければ多いほど溶けて海へ流れる水も多い。親鸞は日本海にそうした変化を見て、不可思議な転成のはたらきを海と表現したのかも知れない。



おわりに

親鸞は著述の中で「海」の語を多用している。それは、教えを容易に理解させるための単なる語の置換ではなく、そしてまた決して美的な比喩的表現ではない。それはまさに、救われ難き衆生が摂取される救済の構造−「転成」−を無言のうちに説示する生きたメタファーであると考えるのである。



  • アリストテレス著 『詩学』 (藤沢令夫訳、中央公論社、1972)、p333。
  • G.レイコフ・M.ジョンソン著 『レトリックと人生』 (渡部庄一ほか訳、大修館書店、1986)、p3。
  • 瀬戸賢一著 『メタファー思考—意味と認識のしくみ—』 (講談社現代新書、1995)、p13。
  • J.M.ソスキース著 『メタファーと宗教言語』 (小松加世子訳、玉川大学出版部、1972)、p16。
  • 『涅槃経』29巻(大正蔵12・536・b)には、比喩が八種類に分類されている。順喩・逆喩・現喩・非喩・先喩・後喩・前後(先後)喩・遍喩の八つである。順喩はある事柄を順次に喩えるもの。逆喩は逆次に説く比喩。現喩は現前のものをもって表現するもの。非喩は現実にはあり得ないことを借りた比喩。先喩は先に比喩を掲げて法を説くもの。後喩は先に法を説いて後に比喩を掲げるもの。前後喩は、法を説く前後に比喩を掲げるもの。そして遍喩は物語全体が比喩であるものをいう。
  • 杉岡孝紀著「親鸞における光の解釈」 (『龍谷大学論集』463号、2004)参照。
  • 瀬戸賢一著 『レトリックの知—意味のアルケオロジーを求めて—』 (新曜社、1988)、p19~25。
  • 森竜吉著 「海」 (『親鸞随想』所収、三一書房、1972)、p19~20。
  • 海のはなし編集グループ編 『海のはなしⅠ』 (技報堂出版株式会社、1984年)、p1~5。
  • 新村出編 『広辞苑』〔第4版〕 (岩波書店1993)、p409。
  • アド・ド・フリース著 『イメージ・シンボル事典』 (訳者代表山下主一郎、1989、第12版)、p554~556。「Ocean(海)」の項にも同様の意が挙げられている。
  • 荒木正見著 「現象としての海—解釈学的序章—」 (『文学における海』、大文社、1983)、p184~186。
  • 杉岡孝紀著 「親鸞における自然」 (日本仏教学会編『仏教と自然』、平楽寺書店、2003)並びに「『自然』概念の再検討」 (『真宗学』109・110合併号、2004)参照。
  • 大田利生著 「親鸞と華厳経」 (『真宗学』105・106合併号、2004) クレバーウルフ スクリーン クリア YZF-R25 14- 《クレバーウルフ 14R2-004-00》、p213~214。なお親鸞思想の『華厳経』からの影響に関しては、道元徹心著「親鸞の著作にみられる『華厳経』の影響について」(『真宗研究』34号、1990)、林智康著「親鸞と華厳経」(佐賀龍谷短大紀要」29号、1983)、中村薫著『華厳の浄土』(法蔵館、1991)に詳しい。
  • 森竜吉著 「海」 (『親鸞随想』所収、三一書房、1972)、p20~23。
  • 安富信哉著 「海の論理想-像力と信仰-」 (『親鸞教学』29号、1976)、p48~49。
  • 海のはなし編集グループ編 『海のはなしⅤ』 (技報堂出版株式会社、1984)、

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    、p2~3。



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